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ブルボン小林公式サイト

ブルボン小林プロフィール

72年生まれ。「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーのコラムニスト。
00年「めるまがWebつくろー」の「ブルボン小林の末端通信」でデビュー。
常にニッチな媒体を渡り歩き、北海道新聞、週刊文春などのメジャー誌から、スウェーデンの雑誌やメルマガなどでも連載。
06年刊行の「ぐっとくる題名」(のちに中公文庫)は、広告業界やテレビ局の人間など、あらゆる「命名する」世界の業界人たちから絶賛され、ひそかな小ヒット。

現在は朝日新聞(関東と九州)、女性自身などで連載。小学館漫画賞選考委員。

その他の著書に「ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ」(ちくま文庫)、「ゲームホニャララ」(エンターブレイン)、「マンガホニャララ」(文藝春秋)など。

 

ブルボン小林史(文・凡コバ夫) 随時更新

デビュー前

94~95年ごろ、ASAHIネット(当時のパソコン通信)の会議室(ネットでいう「掲示板」のようなもの)で、ブルボンと小林製薬のコマーシャルのセンスについて熱弁をふるったところ、その後でモデレーターのH氏に名付けられる。
「君の名前はブルボン小林だ」と。

ASAHIネットには会員の自己紹介用として40×50行の書き込みスペースが用意されていた。その欄を利用してコラム「ブルボン小林のヘボヘボ道場」を98年ごろまで連載。多い月は週に二度更新する。内容は「ノーパン喫茶、ノーパンしゃぶしゃぶの次にはノーパンなにがくるか」を予想したり、プロ野球チームのスローガンを鑑賞したりしていた。後半はネットに場所を移し、計160回くらい続いたらしい(本人もうろ覚え)。
当時から、まるで無名なのに連載名に「ブルボン小林の」と銘打っているところに、らしさが感じられる。

一方、インターネットでは98年ごろから「ブルボン小林のインテリ大作戦」という、言葉遊びゲームのサイトを立ち上げる。「インテリ」という単語に似つかわしくない「大作戦」という配合に「らしさ」がみられる。
また通常、インテリはディスカッションで遊ぶものだが、ここでは笑点の大喜利ルールで、結局ブルボン一人しゃべりまくる、異様な遊びになった。しかしけっこうな数の(見知らぬ)参加者が集って投稿してくれた。
インテリのサイトは現在も(探せば)みられる。アクセスカウンターの横に伏された言葉は「キリ番」という当時のネット文化へのアンチテーゼであり、本人も久々にサイトをみて呆れていた(自分に)。

デビュー

00年、Web制作者向けの情報サイト「Web296.com」が立ち上がる。同サイトにて発行するメールマガジン「めるまがWebつくろー」創刊号からコラムの執筆依頼を受ける。
Web296を立ち上げたT氏は、ブルボン小林の、ASAHIネット時代からの盟友である。会社をやめて貯金を目減りさせて暮らすブルボンをなんとか助けようと思っていたのに違いない。
まだ勃興期のWeb制作業界で情報をシェアしようという志で考えられたWeb296.comにおいては、メルマガも有用な、堅い情報中心になる予定であった。
連載前にT氏がブルボンにいった言葉は「ストリップの合間の漫才のつもりで」つまりアウェーと思ってふざけてくれというものだった。

00年12月、「めるまがWebつくろー」創刊号にて初のコラム「ブルボン小林の末端通信」スタート。ブルボン小林が初めて文章で給料をもらった、コラムニストデビューとなる。創刊号の読者は二百人程度だったか(本人もうろ覚え)。
初の連載が週刊連載というのも異様だがはりきって(他に仕事ないので)執筆。伝書鳩と電子メールを真面目に比較するとか、寿限無寿限無……のドメインを取得できるかとか、わりと無茶な内容で、毎号実施されていたアンケートでは人気トップか最下位という極端なメリハリだった。
クイズサイトの問題作成やテープおこしなど、駆け出しライターらしい仕事もこなしつつ、連載中の01年(本名で)文學界新人賞を受賞し、小説家としてデビュー。翌02年には芥川賞も受賞。
そのころは「めるまがWebつくろー」の読者も1500人以上になっており、連載が支持されていたこともあり、小説とブルボンのコラム、両方をがんばる決意を固める。

T氏の立ち上げた中古ゲーム販売サイト「山田屋本舗」のメルマガでもコラム「となりのゲーム日記」の連載を開始。それをみたフリー編集者S氏からの打診で、playstation.comでのコラム連載の依頼がある。後に「寝ブソク三銃士」と称されることになる一人との、運命の出会いである。

……つづく?